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銀魂。真選組発足前夜のお話。の捏造と妄想に溢れたお話。
人間の魂の重さを知っているか。
それは、土方が二度目に人を斬った夜に、近藤が口にした呟きだった。
***
武州という地は、どこまでも田舎でどこまでも平和だった。
世は戦乱、攘夷戦争という名の侍対幕府の内戦から、いつしか侍対天人という侵略戦争ともいうべき図式に変わって随分経つ。それでもこの武州の地はその戦乱の災禍からは遠く、住まう人々も戦争などどこか他人事であった。
いや、正しく他人事であったのだろう。田畑が広がり農民しか住まわない、自給自足で全てが賄えるこの土地は、良く言えば変わりのない平和な土地で、悪く言えば閉鎖的な土地だった。外との交流は農作物の卸売がほとんどで、外からの流入もせいぜい余所に住まう親戚筋からの嫁入りぐらいなものだった。
そんな土地で開国がどうの天人がどうのと言われても全くぴんと来ない。外の世界で何があろうと自分たちの生活が変わらないのであれば、それは他人事でしかないのだ。
しかしある時から少しずつ、余所者が増えて来た。どいつもこいつもガラの悪い、手負いの獣のごとく目をぎらつかせ、ついでに手にした血錆びた刀をこれ見よがしに見せつけて来る輩ばかりだった。
戦争から逃げて来たのだろう。ある時ぽつりと近藤が漏らした。立派な侍が逃げ出すほどの戦場なんて、どんなもんなんだろうな、と。商店に押し入ろうとしていた奴らをたまたま買い出しに来ていた近藤と土方が見咎め、追い払った後だった。逃げて行くその背を見ながら、その目に浮かべた寂しげな色を見やって、土方は何を、と吐き捨てた。立派な侍が逃げ出すなどあるものか、と。あまつさえ強盗をしようなどと、と。
そう道端に唾吐く土方に、まぁそう言うなよトシ、と近藤は困ったように笑ったのを覚えている。その笑みの意味を、土方は上京してから知ることとなる。天人との文明の差、武器の差、兵力の差。元は武家の子息だったという者が、戦争に参加したがために家から絶縁され今や店の下男に身をやつし。
田舎道場とはいえ同じ流派の道場は各地にあり、跡取りであった近藤は時に余所の道場へ出稽古へ出かけていた。その時に色々見ていたのだろう。
知ってから、土方は思った。彼らの目にはあの土地はどのように映ったのだろうか。己が命を賭して護ろうとした国のあの無関心さに、彼らは何を思ったのだろうか、と。
***
馴染みの呑み屋、というより、近所に一軒しかない呑み屋。真白い頭の大分歳のいった大将一人で切り盛りする、小さなプレハブ小屋みたいな店で、土方は近藤と杯を重ねていた。
大将と同じで大分年季の入った店は隙間風が入り込む。季節は秋口、紅葉の葉がまだ赤々と木々を彩る時分とはいえ、夜ともなればそこそこ冷える。カウンターの隅で二人は肩を寄せ合い、熱燗を互いに注ぎ合ってはさみぃな、とぼやいていた。
「・・・そんで、改まって話って何だよ、近藤さん」
ちょっと飲みに行かねぇか、少し話してぇこともあるし。つい先刻そうやって近藤が土方に声をかけ、二人は今此処に居るのだった。程良く酒も回り身体が温まったところで、土方は横目で近藤を見やって話を促す。
気付けば攘夷戦争も終わりを迎え、世は天人台頭時代。とはいえ刀しか持たない侍に何年も手こずらされたのが腹立たしかったのか、最近廃刀令なるものが施行された。廃刀令の対象は真剣であり竹刀や木刀は関わりないが、けれど確実に剣術は廃れていくだろう。実際、近隣の道場も近藤の道場も、家柄の良い者から次々と門下生が辞めていっていた。
自分たちの生活が脅かされて初めて、天人に対し敵対心を持つ。人間とはかくも現金なものだ。土方は猪口の中身を空けながら眉を顰める。
今近藤の道場に残るのは、農家の倅と、土方のような、食客とも呼べないただの居候数人ばかり。後は子供。恐ろしく腕の立つ、恐ろしく生意気な子供が一人。そんな状況だが、今のところ食うにはさして困りはしていない。近藤の人柄はご近所にも親しまれていて、常に差し入れが届けられるからだ。また、小さいながらも畑も一応所持していて、稽古の合間にみなで手入れをしている。だけれども、いつまでもそのままでやってはいけない。
出て行ってほしい、と。そういう話なのだろうと、土方は近藤に声をかけられた時から腹を括っていた。いやそれよりも以前から、少しずつ門下生が減り始めた頃から、いつかこの道場から去らねばならぬと心密かに決心を固めていた。
土方が近藤に感じている恩義は計り知れない。居場所も帰る場所もない自分を拾い、常に友人として接してくれた。友人として接しながらも、近藤が与えてくれたのは土方の人生にとって三度目の“家族”の温もりだった。
一度目の家族は亡くしてしまった。二度目の家族は護れなかった。だから、三度目の家族は護りたかった。今度こそ、何が何でも護りたかった。そのために、己は強くなりたかったのだと。
そう思いながらもずるずると月日を重ねて来てしまったことを、土方は今更ながら後悔していた。優しいこの人が何も思わずに自分にそのようなことを告げられるはずもない。ここ数日、近藤が珍しく難しい顔をしながら思案に耽っていたことを土方は知っている。悩んだのだろう。心を痛めたのだろう。そして今も、苦しみながらその言葉を吐き出そうとしているのだろう。言わせてしまう前に、自分が告げれば良かった。もっと早くに消えていれば良かった。募る後悔が溢れる前に、土方は酒で喉の奥に流し込んだ。
話を向けられた近藤は、暫し言い迷っているようだった。あぁとかうんとか言いながらがりがり首の後ろを掻いている。
「近藤さん、」
覚悟は出来てるから、一思いに言ってくれ。俺ぁあんたの重荷にはなりたくねぇ。そう言いかけた土方の声に被せ、ついに決心したのか近藤は口を開いた。
「江戸に行かねぇか、トシ」
ぽかん、と。この時の気持ちをどんな言葉で表せるだろう。ただただ真っ白になった頭で、土方は近藤を見た。近藤は土方の目を真っ直ぐに見つめ、いつものように両の口端を大いに引き上げて、にっこりと笑っていた。
近藤の話はこうだった。いくら廃刀令と言えど幕府に仕えるお家柄はその限りでなく、将軍守護の名目の元その刀を取り上げられてはいないという。そういった家に仕えてみてはどうか。ウチの連中は、おつむは弱くても剣の腕は立つ奴ばかりだからなぁ、と。
今にして思えば、馬鹿な話だったと思う。田舎道場の近藤に、そんな家に奉公出来るような伝手もコネもないのは分かり切っていた。いやその時点でも、あんた馬鹿か、と土方は言ったのだった。
しかし近藤は豪快に笑って言ってのけた。出て行きゃ何とかなるだろう、と。
土方はそれに乗った。道場の他の連中も乗った。姉離れの出来ていない子供でさえ――総悟でさえ乗った。
土方にとってはそれは当然のことだった。今度こそ護ると決めた大事な人が江戸に行くと言うなら、自分も着いて行くまで。一緒に行こうと言ってくれたのなら、共に行くまで。ただそれだけのことだった。
だから、案の定江戸に入りはしても事は思うように行かず、あわや全員路頭に迷うかという事態になっても、ひょんなことから警察庁長官なんてとんでもない人物に拾われ、気付いたら武装警察なんて危険な組織に身を置くことになっても、土方に迷いはなかった。
土方個人で言えば、正直天人なんてクソ喰らえだと思っている。ついでにさっさと三つ指付いて白旗上げた幕府もただの肥溜だと思っている。考えとしては攘夷浪士に近いのかもしれない。故郷で出会った、戦争から逃げ延びた彼らの姿が脳裏にちらりと過ぎる。
けれど真選組結成にあたって、自分たちを拾ってくれた警察庁長官である松平は、こう言った。
確かに今の幕府は豚箱でしかなく、狸と烏と天人様の独壇場だ、と。けれど今はまだ若い上様が大きく強くなられた時、必ず侍の国は甦る。それまで俺ぁ死ねねぇし、死んでも上様を護る。上様とこの国の民を護る。その手伝いを、おめぇらにして欲しい、と。
分かりましたと、近藤は言った。その姿は松平の拳銃から吐き出された弾丸の雨に晒され、褌一丁の情けない姿だったけれど。それでもその顔は相変わらず笑っていたから。
――あんたが護ると決めたのなら、俺も護ろう。あんたが護ると決めたモンごと、俺はあんたを護る。
そうして土方は、真選組副長の座に収まったのだった。
***
そして、初めてのお勤めの日。それは、盆が過ぎたばかりの蒸し暑い夏の夜となった。
とある長屋街の一角にあるその部屋で、攘夷浪士たちがテロを起こす密談をしているという。そこを叩き、首謀者をしょっ引くこと。それが松平からの指令の内容だった。
此処で手柄を上げれば正式に真選組は警察組織として認められる。隊士たちの意気込みも士気も十分であった。
聞き込み、張り込みを含めて全て自分たちで行う。警察組織としての基本的なことは全て松平が叩き込んでくれた。副長である土方は隊士たちの報告を受けて策を練る。意外とこれが土方の性に合っていた。しかし意外だったのは自分だけだったようで、近藤も松平もやっぱりトシが一番適任だったなと言って笑うもんだから、何とも面映ゆい思いをした。
「どういう意味だよ、そりゃあ」
「てめぇはよぅ、トシ。無茶苦茶に殴りかかってるように見えて、実はちゃあんと相手と自分と周りを見てるんだよ」
今は仮だが、今夜が終われば正式に真選組の屯所として宛がわれる平屋建ての屋敷の一室で、松平が茶を飲みながら土方を指差す。近藤はその横でうんうん頷きながら言い添えた。
「昔っからトシに試合の戦略立ててもらってただろう。それで負けたこともねぇ。作戦練るならトシしかいねぇだろ」
照れ臭くて、そうかよと頭を掻きながら土方は二人に背を向けて文机に視線を戻す。監察方が書いた部屋の見取り図、集まっている人数、こちらの手勢。まず負けはないと土方は思った。問題が、もしもあるとするならば。
「実戦は、初めてだろう」
真剣での。松平が指先に摘まんだ煙草を口に挟み、ふぅと煙を吐いた。
そこだった。勿論全員、真剣を使っての訓練も済ませている。しかし元々田舎道場の悪ガキの寄せ集めだ。結成にあたり、ある程度の頭数を松平が何処からか調達して来たが、出自はどいつもこいつも似たようなものだった。ガキの頃から木刀で殴り合いの喧嘩をし、大怪我を負わせもし、負いもし。けれど。
幼い頃、逆上して人を斬ったことのある土方は知っている。その時の記憶は朧げだが、しかしそこから喧嘩を重ねて来たからこそ分かったことがある。人を斬るということは、人を殴るということとは全く違うものだ、と。
「何情けねぇツラ並べてんでさぁ」
夏の暑さを少しでも和らげようと、縁側に面する障子を開け放していたその向こうから、真っ黒い隊服に身を包んだ総悟が遠慮もなくずかずか部屋に上り込んできた。
「総悟」
土方の懸念点がもう一つ。それがこの総悟のことだった。
共に武州から江戸へ来る時も、その江戸で行き倒れそうになった時も、松平から真選組の話を聞いた時も。総悟も土方と同様に当たり前のように近藤に着いて行くことを選んだ。土方が近藤に恩義を感じているのと同じほどに、総悟も近藤に並々ならぬ恩義を抱いているのを土方は良く知っている。ガキ臭い独占欲に土方を目の敵にし、殊更近藤の傍に居ることを望む馬鹿だが、その恩義と近藤への思いもまた、嘘ではないのだ。
実力も、はっきり言えば今の真選組の中で最強であろう。ある時から土方は試合で総悟には勝てなくなった。近藤でさえも、三回やれば二回は負ける。
けれど、まだ、齢十三の子供であった。本人が何と言おうと、まだ子供なのだ。土方にとっても、近藤にとっても、松平にとっても。
だから、此度の作戦からは外した。此度だけでなく、暫く、もう暫く、せめて十八になるまでは。人殺しだけは、させたくなかった。
真剣及び火器銃器を扱う許しのある組織。それはどんなに言い繕っても、ただの人殺し集団でしかない。それを、土方も近藤も理解していた。松平も、それを十二分に理解した上で声をかけたのだ。護るもののために、お前らが血を浴びてくれ、と。
しかしそんな親心を知ってか知らずか、いや分かるからこそなのだろう、総悟は自分の扱いにいつまでも不満を言い続けた。真選組での役目も、今は局長である近藤の護衛としてあるが、何故自分より剣の腕が劣る土方が副長なのか、何故局長の護衛であるはずの自分が局長が出向く今回の現場に参加出来ないのか、時に激昂しながら、時に真摯に膝を付いて、いつまでも言い募っていた。
近藤が宥めてさえ諦めないのだから、その悔しさは余程なのだろう。その気持ちが分かるだけに、最近土方は総悟と顔を合わせるのを避けていた。
「土方さん、近藤さん、とっつぁん。俺ぁ、」
すらりと、形式的に宛がわれた腰の刀を総悟が抜く。庭先の夜空にぽっかり浮かぶ下弦の月の白い光に、その剣先が瞬いた。大和守安定(やまとのかみやすさだ)。せめてもと宛がったその名刀は、良業物に恥じぬ鋭さと美しさを誇っていた。それを握る少年の、幼くも整った顔立ちが引き立つほどに。
ずどん、と一閃。気付けば土方の文机は一刀両断されており、総悟の方に顔向けていた土方の側頭部の毛先が僅かに、舞った。
「人ぐらい、何人でも斬れまさぁ」
そうかもしれない、と。総悟を見上げながら土方は思う。こいつは、自分たちが思うほど弱くない。近藤さんは優しさで、自分は幼い頃の記憶から、松平のとっつぁんのことは知らないけれど、まぁ大体似たような理由だろう、大人たちはそうやって子供にエゴを押し付けるけれど、子供は近くの大人の背を見て育つのだ。こんな自分たちの背を見ながら育った総悟は、自分たちが迷いながら悩みながらした覚悟を、男とはそうあるべきとして受け取って生きて来たのだ。護るもののために、人を殺めること。そんな覚悟はとっくに出来上がっていたのかもしれない。此処に居る、誰より先に。
「おぅ、総悟よぉ」
今夜の作戦に総悟を入れたらどうなるか。そんなことを頭の片隅で考え始めた土方の横から、松平の声がした。ついで、彼の吸う煙草の煙が流れてくる。苦い臭いがした。
「てめぇの気持ちは分かるがよ。親父や兄貴たちの気持ちも汲めねぇんなら、てめぇはまだまだ青っ洟垂らしたガキだ。駄々っ子はさっさと寝ちまいなぁ」
眠れねぇなら、子守唄でも歌ってやろうか? がちゃり、と松平が向けた拳銃の撃鉄が上がったのを見て、総悟は何も言わず刀を鞘に納めた。静かな目をして、表情のない能面のような顔をしていたけれど、その皮の下に滲む悔しさが分かったから、土方は何も言えずに背を向けた。そうして、音もなく総悟の気配が消えるまで、三人共口を開かなかった。
「・・・十八までは、持たねぇなぁ」
総悟の去った後、しんと月明かりが差し込む部屋の中で、ぽつり呟いた松平の声が響いた。
――その言葉は、十八どころか、一年も待たずに本当になったのは、また別の話だ。
まだ人通りも絶えない夜の20時。件の現場に真選組は出動した。
密談だから人の寝静まる深夜に行う、何てことはありえない。松平から教わったことの一つだ。深夜に灯り点してごちゃごちゃやってたら逆に人目に付く。密談だからこそ、隠したいことだからこそ、まだ他人様も起きて騒いでいる時間にやってその生活音の中に紛らわしてしまう。木を隠すなら森の中、当たり前のことだ、と。
だから不穏な集まりは実は昼間が一番多い。暗殺でないのなら、テロ行為の実行も昼間が一番多いのだそうだ。確かに、今回監察が持ち帰った情報によると、奴らの画策するテロの実行は明日の12時を予定しているらしい。今夜の集まりはその最終確認のためだという。
あのおネエちゃん好きでも、やっぱり一応警察なんだな、とぼやいた土方に、近藤はわははと笑っていた。
副長時間です、と呼びかけられて見やると、結成の時に松平が外から引っ張ってきた中の一人、山崎という男がこちらを真っ直ぐ見ていた。地味で目立たないから密偵にでも使えと言われ、その通りに監察として使ってみると、確かに使い勝手が良かった。何せ本当に何処にでも居る凡人で、特徴もなく癖もなく、人の記憶に全く残らない立ち居振る舞いっぷりなのだ。今回の突入先の見取り図も、堂々と侵入して特に気付かれずに書き上げて出て来たのだから恐れ入る。気配を消すのもそこそこうまく、つい今し方も再度現場に侵入させ、予定に変更がないのを確認させて来たばかりだ。
今夜が終わってこの組織が正式に認められたら、自分が副長としてそれなりの権限を得たら、こいつを絶対引き立ててやろう。そう土方は心に留めながら、トランシーバーのスイッチを入れる。
各隊の配置の確認。状況の確認。士気の高揚。手元の時計を見る。予定時刻まで後一分。もう一度最後に頭の中の策をさらう。作戦は問題ない。後はどれだけ、実戦に耐えうるか。そこはもう、信じるしかない。そして自分も近藤も、腹を括るしかない。
土方にも与えられた刀を抜いた。同時に、全隊に突入を指示した。
・・・そこからは、予想以上だった。
敵の数は予定通り。テロを起こそうとしていた浪士たちが武器を所持しているのも予定通り。仮にも攘夷戦争に参加していた侍が、刀や武器の扱いに慣れているのも予定通り。予定と違ったのは、いや、ある意味これも予定通りといえばそうなのだろう、こちら側の余りにも足りない実戦経験が、混乱を招いていた。
人を殴るのと、人を斬るのは違う。ただ殴られるくらいであれば、痛みを我慢さえすれば、骨が砕けてその腕が使い物にならなくなるまでは、何度でも殴り続けることが出来る。けれど斬り合いは違う。浅い傷ならばまだ立ち上がり刀を振ることは出来るが、深い一撃をもらったならばもうそこで仕舞いだ。ぎりぎりで命が引っかかれば儲けもの、普通は死ぬ。
それを知る者はどうしても腰が引け、それを知らぬ者は無謀に突っ込んで行って傷を負っていた。
だから土方は斬った。腰が引けている者は蹴り飛ばし、傷を負って倒れた者は踏み越えて、ただ目の前の人間を斬り続けた。背中の近藤を気にするも、近藤だってとっくに腹は座っていたのだろう、土方ら斬り進む数人が取りこぼした連中を迷いなく斬り捨てていた。
そうして気付けば自分たちは、四方八方真っ赤に塗り潰された長屋の中、血と脂がこびり付いて斬れなくなった刀を握り締め、立ち尽くしていたのだった。
ああ、と。我に返って冷静に指示を出す自分の声を何処か遠くに聞きながら、土方は思った。黒い隊服を用意したのは、松平の最後の情けだったのだろう、と。黒い服は血を浴びてもその赤を見せることはなく。ただ重さとして、自分に伝えてくるだけだったのだから。
自分は今どんな顔をしているのだろう。ふと思って土方は近藤を見やる。近藤も同じように土方を見ていて、黒い服に隠された身体は分からないが、顔は返り血程度で大した怪我も見受けられなかった。そうしてその表情は、ただただ、冷静だった。それを見て安心する。あの人が大丈夫なら、きっと自分も大丈夫なはずだ、と。
無言で近藤と肩を並べて表に出ると、そこには煙草をくわえた松平が待っていた。すぱーっと盛大に煙を吐き出し、にやりと口を歪めて言う。
「てめぇら、ちょーっと斬り過ぎだバカヤロー。俺ぁしょっ引けって言ったはずだぞコラ」
「うるせぇな。やっちまったもんは仕方ねぇだろ」
土方は松平の横を通り過ぎ、路地裏の壁に背中を付いた。そのままずるずると座り込む。少し、疲れていた。今更ながらに息が詰まるほどの暑さを感じる。
「まぁ、初めてにしちゃ良くやったモンだ。後は慣れだ慣れ」
土方の横に同じように座り込む近藤と土方の肩をバンバンと交互に叩きながら、松平は軽い口調で言ってのけた。それは何に慣れるということなのか。殺さない程度に斬ることなのか、人を斬り殺すことなのか。思うのも億劫で、土方は顔を上げた。
「とっつぁん、俺にも煙草、一本くれ」
土方の愛煙家人生は、この夜から始まった。
***
晴れて明日には正式に真選組の屯所となる屋敷に戻ったみなを出迎えたのは、予想通り総悟だった。出かける前に見た姿と同じ、みなと揃いの隊服を身に着けたまま、冷めた顔をぶら下げて。
「情けねぇツラぁしてますねぇ」
飛び出す台詞も予想通りで、土方と近藤は目を合わせ、二人で少し笑ってしまう。その様子が面白くなかったのだろう、総悟は舌打ちと共にくるりと踵を返してさっさと廊下の向こうに消えてしまった。酒の用意はしてあるから、全員とっとと湯を浴びて来てくだせぇと、言い残して。今度は全員で笑みを交わしたのは言うまでもない。
備え付けの大浴場で血と汗を洗い流し、互い互いに背を流しながら今日という日を労う。斬られた者は多数おり、酷い者は病院へ搬送したけれど、幸い死者は出なかったようだ。それは近藤や土方をはじめとする前線で闘ってくれた者たちのおかげだと。近藤と土方の元に引っ切り無しに背を流したい希望者が集まり、いい加減背中が擦られ過ぎて痛くなったところで湯に浸かる。斬られたかすり傷より背中のが染みるわボケと土方が零せば、同じ湯に浸かるみなが盛大に笑った。
笑えるのだと。近藤の笑顔を見て、そして自分の顔も笑っているのを確認して。土方はぼんやりと思った。ただそれ以上を考えるはやはり億劫で、土方はそこで思考の蓋を閉じた。
湯から上がって、ささやかな酒宴。もう夜も遅いし、明日からは正式に警察組織として始まることになる。特に近藤と土方は明日朝一で松平と共に幕府へ赴かなければならない。寝過すことは許されないし、二日酔いなんて失態は避けたいし、どうせ明日の晩はもっと盛大に宴会が開かれることになっているし。そんな事情で、珍しく控えめな酒席となった。
そして土方は、少しの間他の隊士たちと酒を酌み交わしただけで、何となく部屋を抜け出していた。
グラスに半分だけ残ったビールを手に、縁側に腰を下ろす。ふと温い風が吹いて、どこかに吊るされた風鈴が鳴らす微かな鈴の音が聞こえた。
何を、思ったらいいのか。空を見上げ、厚い雲間に揺れる月を見るともなしに目に映しながら、土方はぼんやりとしていた。夜になってもほとんど下がらない気温と、纏わり付くような湿気。雲が厚いということは夜半か明け方ざっと雨が降るのかもしれない。そんな、当たり前の夏の夜を思えばいいのか。先ほどまでの頭の回転が嘘のように、今の土方の思考は鈍く絡み付いている。
人を斬ったのは、今夜が二度目だった。一度目は、敬愛していた兄を襲った暴漢を、自分でも訳が分からなくなるほどに無我夢中で。そして二度目の、今夜。
覚えていた。全て、覚えていた。自分が斬られまいと必死だったし、背中に居る近藤を斬らせやしまいと無我夢中だった。けれど全て、覚えていた。
刀を握る相手の腕を斬り落としたその感触、武器を構える相手の肩を貫いた時の相手の絶叫。横合いから斬り込んで来た刀の輝き。頭上から振り下ろされた時の空を切る音。己の獲物を握り締めた時の柄の滑り。途中で斬れ味の鈍った刀で叩き割るように潰した頭。
覚えていて、そしてこうして思い返せるということ。思い返しながら、我ながら上出来だったと笑えること。自分が存外冷静であることを、土方は知った。
からりと、背後の障子が開いた音がした。障子の向こうの部屋ではまだ人の話し声がする。飲み会は続いているらしい。だとすれば、総悟がからかいにでも来たのか、他の誰かがほろ酔いのところで座を辞して来たのか。土方は振り向きはしなかった。
「おぅ、トシ」
どさりと土方の隣に腰を下ろしたのは、予想に反して近藤だった。近藤といえば、先ほどまで小さな宴であったにも関わらず、暑い暑いと寝巻きを脱ぎ捨て褌一丁で隊士に囲まれ豪快に笑っていたはずだった。僅か驚いて隣を見やれば、さすがに褌姿ではなく、再度寝巻きを羽織って緩く帯を結んでいた。
「どうしたよ、近藤さん。もう終いか」
土方はふっと気付いて手の中で温くなってしまったビールを飲み干す。ほとんど飲んでないからちっとも酔っていないが、明日を考えればこの辺でいいだろう。あんたも明日があるんだから程々にしろよ、そう肩を叩いた土方を見やって、近藤は珍しい顔をしてみせた。複雑な、困ったような哀しいような、いまいち感情が読めない微かな笑み。いつも思ったことがストレートに顔に出る近藤からは想像しがたい表情だった。
あんたでもそんな殊勝な顔が出来るのかよ。驚きをそのままに口にしようとした土方を尻目に、近藤は視線を月明かり降る庭へと向けて呟いた。
「なぁトシ。お前、人間の魂の重さって知ってるか」
温い風が吹く。澱んだ熱気がべたべたと全身に纏わり付いて、喉に絡む。土方は不快な夏の夜に目を細めた。
無言で先ほど松平から巻き上げた煙草の箱を取り出す土方を見ずに、近藤は今度はいっそ清々しいほどの笑顔でちょうど雲間から顔を出した月を見上げた。
「21gだとか、いやいや大体2gから6gぐらいだとか、まぁどこぞの先生方が色々研究なさってるみたいだけどよ。俺みたいな馬鹿にゃあ分からん話だ」
あんたに分かんねぇんなら、俺にだって分かるわけねぇだろ。土方は煙草をくわえながらに言い捨てて、それと同時に肺いっぱいに吸い込んだ煙を吐き出した。苦い。それでもこの重たい湿気を過分に含む暑い空気を吸うよりマシだと、今は思う。
「じゃあトシ。人間の血液量って知ってるか?」
「大体体重の8%。ついでに言うなら、その半分が失血致死量だ」
そりゃこないだ松平のとっつぁんから聞いたろうと、土方は即答しつつ溜め息をつく。だから半分いかなかったらそいつは死なねぇから思いっ切りやれと。松平の話はそう結ばれて、どんだけ豪快なおっさんだよと思ったことは記憶に新しい。
「てことは、大体4%流しちまったら死ぬんだよなぁ。俺ぁ今80kgぐらいあるから、えっと、・・・3.2kgか。トシは?」
暗算なんて出来ねぇよと笑って、近藤は庭先に下りて手近な小石を拾ってしゃがみ込み、地面にがりがりと算術を書いて計算した。聞かれて土方も後を追って庭に下り、その隣に同じようにしゃがみ込んで近藤の手から小石を奪い、地面に書かれた数式の横に自分の計算を書き連ねる。
「俺ぁ今どんぐらいだったっけなぁ・・・63、4kgだったはずだから、・・・2.5kgぐらいじゃねぇか」
「変だよなぁ。人間なんて魂がなきゃ生きてられねぇってのに、その重さは血より軽いんだってよ」
しゃがみ込んだまま夜空を見上げ、近藤は呟く。分かるようで分からない話だった。ただ一つ分かることと言えば、今土方が今夜の隊服に染み込んだ血の重さを思い出しているように、近藤もまた同じ重さを思い出しているのだろう、ということ。
「21gなんだか2gなんだか知らねぇが、そんな軽すぎる重さじゃ俺には分からんからさ、」
土方の方を向いた近藤の目は、いやに透明に真摯な色をしていた。
「俺ぁあの血の重さを、忘れないよ」
それは、盆を過ぎたばかりのまだまだ残暑厳しい夏の夜。下弦の月が厚い雲間に見え隠れする、一雨来そうな夏の夜。重い熱気が纏わり付いて、互いの汗の匂いの中にむせ返るほどの血の臭いが立ち昇る、真選組発足前夜のことだった。
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