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①からの続き
***
こういう事態を、予想していなかった訳ではない。
新羅に連絡を取られた時点で――新羅がこの場所を知ってしまった時点で、これは十分に予測出来た。出来たけれど、対処が出来なかっただけだ…この動かない身体のせいで。
とはいえ。
「……それは、ちょっと想定外かな、……シズちゃん」
臨也が身体を休めているホテルの部屋のドアホンが鳴った時、ああやっぱりか、と臨也は苦笑った。両手が使い物にならないため傍に置いておいた奈倉に、来客が誰でも中に通せ、そして君はそのまま帰れ、と命じて応対に向かわせてすぐ、その男は臨也の目の前に立っていた。
壁の向こうからこっそり奈倉が覗いている。どうしたもんか、といったような思案顔のようにも見えるし、ここで確かに臨也が殺されるのを確認して、大手を振って表の世界へと出て行きたいのかもしれない。
どちらにしろ、臨也は彼に帰れ、と告げたのだから、その通りにしてもらいたい。その意を込めてにっこりと笑ってやると、やっと奈倉はそそくさと帰って行った。
そうして目の前に立つ男――平和島静雄に視線を戻してみたならば。
「シズちゃんは一体……どういうつもりなのかな」
ああ悔しい。ムカつく。身体が動けば、利き手さえ使えれば、間違いなく今この男にナイフを突き付けてやっているのに。
やはり臨也は静雄が嫌いだと思う。いつだってこの男は臨也の予想を裏切り、そしてそこに理屈も言葉もなく、いつだって臨也に理解させない行動を取る。
それが“人間”ならば愛せていた。寧ろ人間ならば、臨也の予想を飛び越えてきてくれるのは大きな喜びでもって享受しよう。けれどこの男は、
――――俺は、あの怪物の人間の部分を見ようともしなかったから負けた――――
まさか、と臨也が思い、そして昨晩のあの嵐の後、何もかもが終わった後に静雄が見せた“あのザマ”を脳裏に描いたのと。
腰を90度に折って、どう見ても臨也に頭を下げているようにしか見えない静雄が言葉を発したのは、全くの同時だった。
「……悪かった」
何と言った。この男は今、何と言ったのだ。あの平和島静雄が、この折原臨也に、一体何と?
臨也の目の前の男は、言葉を発しても尚、その頭を上げない。臨也の目に映るのは結局男のパサついた金髪とその旋毛だけだ。
顔を、と。驚きの余り口はぽかんと開いてしまい、適温に調整されている空調のせいで口内は乾いて、零れた臨也の呟きは掠れていた。
それでもこの至近距離のおかげか確かにその声を拾った男は僅かに肩を揺らしたから、臨也は掠れたままの言葉を重ねる、顔を見せて、シズちゃん。
上げられた顔は笑っていて欲しかった。先に発した言葉なんてまるで嘘のようになかったように、ニヤニヤと嫌味に、もしくは獲物を前にした獣のごとく獰猛に、それ以外でも何でもいいけれど、とにかく笑って哂って嗤っていて欲しかった。ざまあみろクソノミ蟲、と、そう言って欲しかった。
それなのに、
(何だよその顔は、)
臨也の求めたままに頭を上げた平和島静雄は、その顔は、苦虫を噛み潰したようにも見えたし、酷く苦しんでいるようにも見えたし、その名の通り静かに全てを受け入れる覚悟を決めたようにも見えたし、――――とにかく、笑ってはいてくれなかった。
だから折原臨也は、平和島静雄が嫌いだ。いつだってこの男は、臨也の望んだ通りにはしてくれない。最初から。最後まで。
「……っ、何なんだよ君は!!」
思わず叫んだ臨也を、静雄は黙って静かに見ている。そうすることが当然のように、加害者が被害者の怒りを聞くのが受け入れるべき裁きの一つでもあるかのように?
違うだろう、と動かない身体をそれでも捩って臨也は吼える。
自分たち二人の関係は、加害者と被害者なんてそんな安易な枠で片付けられるものじゃない、いや、静雄曰く「手前さえ居なかったら」と言うならば、静雄にとっては臨也が加害者なのだろうがしかし、やはりお互いの関係はそんなものじゃない、お互いがお互いを“排除すべき障害”“倒すべき敵”として見据えていたはずだ、お互いの利益のために。
そうして敗れた相手に対して、武士の情け(ああいかにもシズちゃんは好きそうだ!)で墓を建ててやることはあれど、頭を下げるなんて世界がひっくり返ろうとも死者の国の扉が開こうともあるはずがない、あってはならないことだった。
なのに何だその顔は。何だあのザマは! 昨晩の静雄を思い出して臨也は怒りと恐怖で更に身を捩る。
いつでも臨也を殺せるほどに蹂躙して貪り尽しておいて、けれど結局最後の一手は下さなかった。臨也を、殺さなかった。
人間と獣の違い、人間と怪物の違いは、そこだ。それは理性であり、知性だ。
臨也が最初に出会った平和島静雄には、まるでそれがなかった。ただ自分に害をなすから暴れて排除する。獣であるなら他を見習って人間に従属し、その知恵と庇護の元に生存競争に勝っていけばいいのに(その過程で失われる獣の本能など臨也の知ったことではない、臨也は常に人間の味方なのである)、臨也には不穏な臭いがするから従わないと言う。
本能でしか動かない獣、それはつまり人間の外敵であり、しかも表面上人間の姿形を真似て人間社会に交わろうとする、ならばそれは“怪物”だ。
だから臨也はどこまでも平和島静雄を排除しようとしていた。人間のために。人間社会のために。古来より人間がそうしてきたように。
なのに結局この怪物は人間の仲間を得て、ついには本能より理性を上回らせた、しかも生存競争の最中に。そして数年が経ってみれば、本能はそのままに、けれど自力で理性というブレーキがかけられるようにまでなってしまった。
そうして、まるで。まるで、まるでそう、“人間”のように! “人間”のように懺悔して見せた、絶望して見せた!
感情という感情が全て抜け落ちてしまったかのようなあの顔。焦点は合っているのに何も見ていない目。何も見えていないくせに臨也を、他の誰でもない仇敵である臨也をその目に映し、あろうことか、自分は何てことをしてしまったんだと、絶望してしまった!
つい手を伸ばしてしまった臨也を、誰が責められるだろう。
臨也は、“人間”を、愛している。
罪を犯し途方に暮れている、そんな存在を赦すこともまた、臨也の“愛”なのだ。
けれどそれは。それは。
無茶苦茶に叫び散らして、けれど不意に口を噤んだ臨也に、目の前でただ静かに黙って立っていた静雄が、最期の爆弾を投下する。
「…手前が何言ってんのか全然分かんねえけど、」
「俺は昨日、手前を殺したかった訳じゃなかった」
――ああ、神よ!
神などこれっぽっちも信じていない臨也がついにその名を呼んだとて、誰がそれを責められるだろうかと、臨也は心中で唾を吐いた。
***
臨也が意味不明なことを喚き散らしている間、静雄はずっと別のことを考えていた。折原臨也の言うことなど聞いても静雄にはさっぱり理解出来ないのは高校からの付き合いで身に染みている。それでも聞いてしまって苛々したことは数知れず、とにかく今は爆発する訳にはいかない静雄の取った最善策がそれだった。
そうして静雄が考えていたことは、結局は折原臨也のこと。
出会った高校の時から、静雄は本能で臨也を“敵”と判断した。結論それは正しく、以後臨也は厄介な存在として静雄の生活を搔き乱していく。
色んな奴らが色んな方法で静雄に接触してきた。それは拳であったり鉄パイプであったり時には拳銃であったりしたけれど、最終的にいつも残るのは血の臭い。その血の臭いの中の“ノミ蟲臭”を嗅ぎ分けられるようになったのはいつ頃からだっただろう。
実際、“ノミ蟲臭”とはどんなだ、と問われて答える言葉を静雄は持っていない。
折原臨也の臭いといえば、恐らくまあ、普通だ。洋服の洗剤の匂い(しかし臨也が洗濯をしている姿は想像つかないから、恐らく頼んでいるクリーニング屋の匂いなのだろう、ムカつくことに)。使っているシャンプーの匂い(多分高級なものだ、ムカつく)。顔を合わす前にキナ臭いことをしていれば埃っぽい臭いがそれに混ざり、食事をしていたなら食べたもの飲んだものの匂いが混ざる。とにかくまあ、普通の他の人間と大差ない、と言いたいところだが。
一つだけ他と違うところがあると言えば、体臭がない、もしくは薄いことだと静雄は思っている。
体臭、所謂実家の匂いのようなものが、臨也にはない。それはまるで、何度か足を踏み入れたことのあるあの新宿の部屋のようだと思う。事務所としても使っているということを差し引いても、必要なもの以外何もない、住居というには余りにも無機質なあの部屋。
であれば寧ろ、“ノミ蟲臭”を感じるのは難しいことのように思うがしかし、それでも静雄には、“ノミ蟲臭”が嗅ぎ分けられる。臨也が何処で何をしていても、静雄の手の届く範囲に居るのなら、必ず。
今だってそうだ。未だ静雄には良く分からないことを喚いている臨也を見下ろし、静雄は大きく鼻で息を吸う。
ベッドの上に横になって全身包帯ぐるぐる巻きの男からは、常のようなクリーニング屋の匂いやら高級シャンプーの匂いはしない代わりに、目にツンと来るほどの消毒液の匂いがした。そしてそれに負けないほどに叩き付けられる、静雄の神経をいつだって苛立たせる“ノミ蟲臭”。
昨晩だってそうだった。荒れ果てた部屋、割れた窓から入り込んでくる冷たい夜風の匂い、ぐちゃぐちゃになった部屋のあちこちから舞い上がる埃の臭い、静雄が入居して一度も代えたことのない古い畳の匂い、乱暴に乱暴を重ねた臨也の身体から流れる血の臭い、臨也をそんな風にするまで暴れた静雄の汗の臭い、そして、どちらのものかもう分からない混ざり合った体液の臭い。
たくさんの雑多な臭いの中で、それでも一番静雄の嗅覚を刺激し続けたのは“ノミ蟲臭”だった。
その臭いの元を辿って静雄が臨也の目を見たのと、臨也が不意に口を噤んだのは同時だった。
その直前に臨也が何を言っていたのか、静雄にはやっぱり分からない。けれど突き刺すほどの“ノミ蟲臭”に、静雄は今自分の発言が求められていることを感じ取る。
だから、言う。
「…手前が何言ってんのか全然分かんねえけど、」
「俺は昨日、手前を殺したかった訳じゃなかった」
……そう。口にして静雄は気付く。
静雄は昨晩、臨也を殺そうとは思っていなかった。あの日のあの闘いを続きをしたいなんて、これっぽっちも望んでいなかった。
ただふと、思い出しただけなのだ。臨也が居て、静雄が居て、お互い殺し合うために池袋中を走り回っている、そんな、
――――“日常”を。
思い出した途端、今までの日々が、あの日のあの闘いから過ごしてきた平穏な日々が、不自然過ぎて気持ち悪くなった。そんなものはまるで悪夢だ。
どっかのガキが数年前、非日常が云々と街で騒ぎを起こしたけれど、静雄からしたら全くクソ食らえな出来事である。
静雄は日常が好きだ。日常を愛している。毎日仕事に出かけてトムや借金の肩代わりをしてくれている社長の役に立ち、臨也を追いかけ回し、幽の出るTVや映画を観るために早く家に帰り、臨也を追いかけ回し、セルティと時々話し、臨也を追いかけ回し、怪我をしては新羅の解剖欲求を受け流し、臨也を追いかけ回し、給料日には露西亜寿司に行き、臨也を追いかけ回し、そして冷蔵庫には常にプリンが入っている。そんな毎日を繰り返すことこそ静雄の幸せだ。
だから、ただ、取り戻したかっただけなのだ。そんな静雄の日常に必要なピースを。逃げようとするから逃したくなかった、ただ、それだけだった。
それをそのまま目の前の臨也に言うと、臨也は大きく目を見開いて口を魚のようにパクパクさせるから、初めて見るその様が面白くてつい静雄は笑ってしまう。
笑った静雄に対して頬を染め、シズちゃん! と抗議の声を上げるその様もまた、静雄には新鮮でやはり面白かった。
「…シズちゃんは俺を殺したいんじゃないの」
「…分かんねえけど、今なら簡単に殺せるのに殺さないってことは、多分今は殺したくねえ」
「だってあの日は殺そうとしたでしょ」
「それは手前がセルティをおかしくして、ヴァローナを殺そうとしたからだ。言ったよな、俺の日常にはセルティも、今は国に帰って居ねえけどヴァローナも必要なんだ」
「……でも、俺も必要なんでしょう?」
「…………そうだな」
「俺を殺したら、俺は居なくなるよ」
「手前は俺に殺されるタマじゃねえだろ」
やっぱり俺には、言葉を聞いてもシズちゃんの理屈は分からないよ、と目の前の臨也が溜め息をつく。確かに静雄にしてみても、言葉にしたらその矛盾が分かるけれど、それでもそれが真実なのだから仕方がない。
あの日あの時ヴァローナに言った、『筋が通らないこと』とは、つまりはそういうことだった。
今回と同じだ。静雄の愛する日常に欠かせない人たち、そして静雄を愛してくれた人たち、幽やトム、新羅やセルティ、そしてあの時はヴァローナも、誰もが静雄に“怪物”になって欲しくはなかっただろう。それだけはしてくれるなと、恐らく誰もが願っていただろう。
それでも静雄はあの日あの時心に決めた、臨也を殺すと、――――“静雄の日常”のためだけに。ただ、己のためだけに。例えそれが怪物になることで、こんな静雄に寄り添ってくれた数少ない人たちの願いを無視することで、誰もが望んでいないことであろうとも。
それが一つ。
そして、もう一つは。
――それでも平和島静雄には折原臨也が必要なのだ、どうしても。例え誰もが望まないことであっても。
その気持ちを初めて己の胸の内から拾い上げて、すとんと腑に落ちたならば、今までの全てがクリアになったような気がした。
臨也を追いかけて追いかけて追いかけ回して、そうして静雄がしたかったことは、本当にしたかったことは、殴ることでも蹴ることでもぶっ飛ばすことでも殺すことでもない。
ただ、もう自分から逃げ出さないように、捕まえておくことだった。
捕まえてさえおけば、もうそこかしこで悪さは出来ない。いつでも静雄の目の届く範囲に、手の届く範囲に置いておけば、静雄を苛立たせる事件を起こさせることはない。
いつだって静雄を怒らせることばかり言う口だって、もうそれは我慢してもいい。いつでも静雄の傍に置いておくなら時間だってたっぷりあるのだから、たまには理解出来ないと耳を塞がずに、根気よく話を聞いてやってもいいだろう。それでもやっぱりムカつくことばかり並べ立てるのならば塞いでしまえばいい、そう例えば、昨晩のように――――
そこまで思い至って静雄はカッと頬を染めた。途端、全く覚えていなかったはずの昨晩のあれそれが怒涛のように頭の中を駆け巡る。
取り戻したかった。もう二度と逃したくなかった。ただそれだけの感情で臨也に行ったあれやこれ。それが異常であること、そしてやっぱり男として最低の行為であったことは間違いない。例え相手があの臨也だったとして、……いや、臨也であるからこそ、赦されざる行為だ。
その“欲望”の名は、さすがの静雄だって知っている。
***
急に青い顔して黙り込んだ静雄を横目に、臨也は改めて自分の認識について考えを馳せた。
……もしくは、観念したと言っていいだろう。
とうとう臨也は認めざるを得ない。
――平和島静雄という“怪物”の中に、確かに息づく“人間”を。
『俺は、あの怪物の人間の部分を見ようともしなかったから負けた。』
それは揺るぎない事実として、あの日からずっと臨也の中に在ったのだから。
臨也が本能だけの獣と見なし、獣のくせに人間社会に交わろうとする怪物だと断じた男は、その時点からいつの間にか進化、…いや、成長をしていた。
成長した怪物は…、いいや男は、人間から仲間という信頼を得て、本能を抑える理性を覚えた。
あの男はもう、“人間”の外敵ではない。“人間”が古来より排除してきた異質ではない(あの怪力は衰えていなかったので全く異質ではないとは言い難いが、あれぐらいの異質なら他にも居る、サイモン然り、新羅然り、その他諸々)。
で、あるならば。もう、“臨也”の“排除すべき障害”では――――ない?
さすがにその考えにはぞっとして、思わず臨也はぶるると首を振る。
例えば臨也の愛するその他の人間であったって、臨也の目的の邪魔をする者は容赦なく排除する。してきた。その排除される過程で対象が取る行動含めて臨也は観察し、愛してきた。
平和島静雄が“人間”の敵ではないとしても、“臨也”の起こす行動を黙って見過ごす男ではないことはもう十二分に実証済みだ。であるならば、平和島静雄が折原臨也の敵であることにはなんら変わりはない。
ということは、今後も彼は臨也の排除対象だ。そうして臨也は彼の排除される過程の行動を観察し――――愛する?
いやいやいや、と、臨也も顔をこれでもかと真っ青にして強く首を横に振った。
俺が? 愛する? シズちゃんを? まっさかぁ! おどけて笑い飛ばそうとしても、頬は嫌な具合に引き攣っている感覚しかしない。いよいよ臨也の背筋に冷や汗が流れた。
そうしてふと頭を過ぎったのは、昨晩の記憶。暴れに暴れて臨也の全てを喰らい尽した獣が、戻って来た理性でもって自分の行いに絶望して見せたあの様。
その時に取った、臨也の行動。
臨也はただ、彼に手を伸ばしていた。何もかもを失ったような顔をして、相手はこの折原臨也だというのに、己の全てに絶望した顔をした彼に、臨也はただ、手を伸ばした。手を伸ばして、振り上げる先から全てを壊して回るその拳に触れて、……血の気の引いた顔のように冷たく冷え切って固まってしまったその手を、ただ、撫ぜた。
だって、可哀相だったから。
臨也なのに、相手はこの折原臨也なのに。
臨也にとって静雄がそうであったように、静雄にとって臨也は“排除すべき障害”、“倒すべき敵”だっただろう。そして一度は本気で殺そうともしただろう。
それなのにどうして。何を今更。
その答えは、先ほど結局理屈の理解出来ない言い分として本人から言い渡されたけれど、勿論昨晩の臨也が知るところではなかったから、ただただ臨也は、静雄が可哀相だった。そんな風に思うことなどないのにと、そんな風に嘆かないで、と。
(……か、わいそう?)
臨也は、“人間”を、愛している。
罪を犯し途方に暮れている、そんな存在を赦すこともまた、臨也の“愛”だ。
けれど、昨晩臨也が静雄に伸ばした手は…………何だ? 可哀相だったから、それは、“人間を赦す愛”、か?
臨也は基本余り汗をかかない。静雄と池袋中をチェイスしたならばともかく、ただベッドに横になっているだけで、しかも昨晩そこそこの流血もしていて元々低い体温が更に低下している現在、汗をかくという現象は起こり得ない。
それでも今、臨也は汗をかいている。パジャマをぐっしょりと濡らしシーツにも染みるほど、前髪が額にぺったりと張り付くほど、それでも尚ダラダラと、冷たい汗を吹き出し続けている。
そう、昨晩触れた静雄の拳は冷たかった。それまでは馬鹿みたいに熱かったのに、昔からずっと熱かったのに、あの瞬間は凍り付きそうなほどに冷たかった。
臨也はただそれが…可哀相で。そんな静雄を見ているのは……辛くて。ただ、…………温めたくて。
(……それは、)
駄目だ、と臨也は思う。これ以上考えては駄目だ。
そう、静雄は人間の外敵である前に、正しく臨也の敵だった。臨也が池袋で成そうとした計画に、ただ臨也が関わっているというだけで全てにおいて立ち塞がって来た静雄は、正しく臨也の排除すべき障害だったではないか。
――ならば、愛するのか? 彼の取る行動を観察し、その他“全ての人間と同じように”?
(……違う、)
それは違うと臨也の脳みそが眩暈がするほど警鐘を鳴らしている。
静雄は違う。静雄は臨也の“愛”の対象ではない。どうしたって“愛”せない。
何故ならそれは、彼が、“平和島静雄”であるから。
では、“平和島静雄”とは、一体何なのか。
彼は“怪物”であり、しかしいつの間にかその成長によって人間社会と共存し始めた者。
臨也の敵。臨也の障害。旧くから臨也の前に立ちはだかり続けた、因縁の。
臨也の。臨也の。臨也の。
そこまで考えて臨也は瞑目する。もう駄目なのだと嘆息する。
“平和島静雄”とは、結局、“折原臨也”という“個”に連なる者なのだ。
臨也はどこまでも平等に全き平らに全ての人間を愛し、そのためには特定の大切な人は持たないと決めていたし、そうしてきたつもりだったけれど、恐らく実際は、そうではなかっただろう。
岸谷新羅。今でも彼は臨也の唯一にして一番の親友であると思っている、彼にとって臨也がどうであれ。
九瑠璃、舞流。自分にとっては血縁であれど人間という大枠の中の一人に過ぎないはずだった、それでもせめてと伸ばした手は、人間の運命は人間が決めるべきだという、人間のどんな選択、そしてそれによってもたらされたどんな結果にも関わらず、全てを許容し受け止め愛する、という己の信条に反したものではなかったか。
そして、“特定の大切な人”の中には、当然“自分”だって含んでたはずだった。しかしそれもやはり、そうではなかった。
“折原臨也”という“個”を認めるということは、そういうことだ。
折原臨也は、所詮、結局、“折原臨也”なのだ。
そしてその“折原臨也”に繋がる岸谷新羅、九瑠璃、舞流と同じところに、同列に、“平和島静雄”が、居る。
…因縁の、とは良く言ったものだと臨也は思う。
縁なのだ、それは。人間を止めた者に、人間より超越した者に、全ての人間を平等に愛する者に、特定の縁などあるのだろうか。
あの日のあの闘いで、臨也は“自分は人間である”ことを証明しようとしていた。
そうして敗れた臨也はその証明に失敗し、よって“自分は人間ではない”と結論付けた。
だから全てを捨てた。新羅という友人も、妹たちも、池袋というしがらみも、平和島静雄という因縁も。何にも縛られることなく、折原臨也として自由に生きるために。
それなのに、今。
臨也に引導を渡した男の存在そのものが、“折原臨也は人間である”という事実を突き付けている。新たな鎖が巻かれている。
(『手前が必要だ』、か)
とんでもない話だ。静雄の言葉というものをもしかしたら初めてちゃんと聞いたかもしれないけれど、けれどやはり臨也にはさっぱり理解出来なかった。相も変わらず折原臨也にとって平和島静雄とは、意思疎通の出来ない“怪物”だ。
けれど、ねえ、
「シズちゃん、」
分かってしまえば、もう捨てられない。
折原臨也が“折原臨也”たるために。自分は“人間”だから“自分”が好きなんだと高らかに宣言するために。
――折原臨也には、平和島静雄が、必要だ。
***
「シズちゃん、」
そう呼ばれてグルグルダラダラと青い顔して冷や汗を垂れ流し続けていた静雄は、ハッと面を上げた。
上げて、そして。
……驚きで、呼吸を忘れた。
なのにその原因である目の前の男は、返事を返さない静雄に、シズちゃん? と首を傾げてみせる。
いやその呼び方やめろとか、俺には平和島静雄っていう名前があるんだとか、そんな昔馴染みなお約束はともかくとして。
「…手前、何、笑ってんだよ」
そう。それだ。
いや、臨也が笑っている顔など静雄は嫌になるほど知っている。何度も何度も、池袋には来るなと言ってもそれを嘲笑うかのように何度も静雄の前に姿を見せて、そしてやっぱり静雄を嘲笑っていく顔ならば何度も何度も見た。
けれど、今は。今のその顔は。
そりゃあ俺だって笑うよ、何たって人間、だからね! そう言って臨也は再び破顔して見せる、…そんな、静雄が一度も見たことないような顔。
何がそんなに楽しいのか嬉しいのか、目の前の男は今にも口笛吹いて踊り出しそうな気配だ。もし身体が動くのならばもうとっくにそうしていたのかもしれない。その様が静雄には大変奇妙だ、奇妙過ぎて気持ち悪い。
おい、と若干凄んでみても、臨也は、なあにシズちゃん♪ と返すばかり。いけないいけない今日はいけない今はいけないと思いつつ、どうせ短い静雄の導火線はあっという間にチリチリと焦げていく。
そして簡単に燃え尽きた。
「…っ臨也てめっ、何でそんな笑ってんだよ、俺は手前に……!!」
…その先は、どうしても口にするのを憚られた。俺は手前に、強姦、したのに? ああ、何でそんなことに。怒鳴って一瞬血の昇った顔から、またもざっと血の気が引いていく。
その様を臨也が見ている。いつものように嘲笑いもしない、さっきまでのように笑いもしない、やけに大人しい、黙ってさえいれば幽にも負けない綺麗な顔立ちで、静雄を見つめている。
鼻を刺すのはノミ蟲臭。感じるたび胸が悪くなる、いつだって静雄の神経を苛立たせるノミ蟲臭。気持ち悪くて、寒くて、今にも静雄は蹲って頭を抱え出しそうだった。
「シズちゃん、」
ねえ、シズちゃん、手。
見れば、臨也がベッドから震える腕を伸ばしている。手の甲から二の腕までぐるりと巻かれた包帯。傷付けたのは他ならない静雄だ。
慌てて静雄はベッドに歩み寄ってその手を取る。そしてちゃんと布団の上に置いてやって、動けねえのに無理すんなと、そのまま手を離して一歩後ろに下がろうとしたならば。
ぎゅ、と。離れかけた静雄の手を臨也の手が握った。
「…おい、」
その姿勢のまま固まってしまった静雄を尻目に、臨也の手が静雄の手の上を滑る。ゆっくりと、柔らかく、固く握り締められた静雄の拳を解すかのように、温めるかのように、昨晩の、ように。
いざや。
思わず零れた静雄の声は掠れていた。
どうしてこいつはこんなことをするのだろう。しているのだろう。今も、昨晩も。静雄は昨日この男に何をした。捕まえて、殴って蹴ってぶっ飛ばして引きずり倒して、暴れる脚が邪魔だと手折り、ナイフを突き立ててくる腕が邪魔だと手折り。喚く口がうるさいと塞いで、ついでに喉も締め上げて、そうして身体を暴いて、それから、それから。
やめろと静雄が叫ぶのと、やめてと臨也が言い切るのは、同時だった。
臨也の静雄の拳を撫ぜる手が止まり、握り締め、二人は至近距離で見合う。誰かが見ていれば百人中百人一触即発の事態だと思い、被害を恐れて距離を取るだろう。
けれど静雄は今夜臨也に危害を加えるつもりはなく、臨也はどうか知らないが、見た限りではそれが出来る様子ではない。
だから二人が使える武器は、目と、口だけだった。
それは恐らく二人の関係において、初めてのことだっただろう。
目は勿論、これまでの闘いの日々でも使っていた。しかしそれは、相手の攻撃を見逃さない、見極める、現状把握、空間把握など、攻めるための補助器官だった。今のように、ただ顔と顔を突き合わせ、互いの目の奥まで覗き込み、その真意を見い出すために使用するのは、やっぱり初めてだった。
そして何より、口だ。
静雄は臨也の言うことなど聞いてもさっぱり理解出来ない、寧ろ余計に苛立つだけだと端からその言葉を耳に入れて来なかったし、それは臨也も同じだろう、先ほど、やっぱり俺にはシズちゃんの理屈は分からない、と言ったように。
それでも今、使えるものはこの二つしかない。この二つでもって、相手を圧倒しなければならない。
それ即ち静雄も、そして臨也も、初めて互いの言葉に耳を傾けざるを得ないということだった。
闘いの基本は先手必勝。静雄から口火を切る。
「…手前、昨日俺に何されたか分かってんのか」
「なに、いつものことだったじゃない。ちょっと俺の方の調子が悪くてね、運悪く逃げ切れず、だから結構痛手を負っちゃったけど、あの日ほどではないよ」
「……ちげえよ、そっちじゃなくて、そうじゃなくて、」
「ああ、もしかしてレイプのこと言ってるの? 確かに驚いたかな、でもまあ、マウンティングっていうの? 野生の摂理、ってとこじゃない。ハハハ、シズちゃんにぴったり」
「っ、そんな簡単な話じゃねえだろ!」
「簡単な話じゃないなら、何。平和島静雄に折原臨也がレイプされましたーって、警察にでも訴えろって? やだやだやめてよ、そんな情報流れちゃったら商売あがったり、あ、言ってなかったけどね、新宿からは引っ越したけど、俺は今でも素敵で無敵な情報屋さんやってるの、だからそんな情報何処にも出す訳にはいかないんだ、分かる? だからシズちゃんも、もし悪いなーとか思ってるんだったら、誰にも言わないでね。ま、言ったらそれこそ今のシズちゃんのだーいじな“日常”とやらが壊れちゃうから、言えないよねえ!」
「やっぱ手前ごちゃごちゃうるせえな! 何だおい、脅してんのか?! 俺はそれでもいいって言ってんだろ!」
「シズちゃんこそちゃんと人の話聞いてる? 俺は言わないでくれって言ってんの、そうだね、それで貸し借りチャラってことにしようよ」
「手前、だからそんな簡単に…! ってまさか、おい、まさか手前、初めてじゃなかったとか言わねえよなあオイ」
「は、あ?! ちょっとシズちゃん、それどういう意味?! 聞き捨てならない、いや確かにね、今までそんな危険がなかったとは言わないさ、けどね、俺は至ってノーマルだし、そもそも俺がその辺の有象無象相手にそんな下手打つとでも思ってんの、…って、何、なにシズちゃん、何でそこで赤くなるの?!」
「……いや、だったら、その、ちゃんと、そのよ、初めてだったっつーなら、あれだ、その、」
「ちょっと待ってよシズちゃん! ねえまさか、まさかさ、『責任取ります』とか、今時そんな古風なこと言い出すつもりじゃないだろうね?! ていうかレイプの責任って何! だから俺はこの件は公にはしたくないんだってば!!」
「ぎゃあぎゃあうるせえなクソノミ蟲!! それじゃ俺の気が済まねえって言ってんだよ!! とにかく何でもいいから詫び入れさせろ、責任取らせろ!!」
……そもそも、本来余り自分の(怒り以外の)気持ちを言葉にしたことのない静雄が、この口から産まれたような男を相手にして、舌戦で勝つ見込みなどなかったのだ。それは始めてみてすぐに分かった。
けれど、今。
口先だけで何もかもを引っ掻き回していく、素敵で無敵な情報屋なんていう何処までも胡散臭い生業をその口先だけで渡り歩いている、そんな男が、黙り込んでいる。
もう一つの武器である目を駆使して静雄はその顔を覗き込もうとするが、ふいと逸らして奥を覗かせるその目まで閉じてしまう。
盛大な舌打ちと共に、静雄は未だ臨也に握り締められている拳とは反対の腕を伸ばした。…まあ、反則技だ。
逸らされた顔をぐいと正面に戻し、臨也、と呼ぶ。臨也はといえばやはりこの反則技にはご立腹のようで、ぎりりと奥歯を噛み締める音がした。けれど、口と目を武器にして闘っているというのにそのどちらも黙秘させるということは、静雄にしてみればそちらの方がよっぽど反則技だったので、お互い様だと鼻を鳴らしてやる。
元々人を上から見下ろすのが好きだった男が、体勢的にも形勢的にも下に居るのは我慢ならなかったらしい、カッと鋭い目を見開いて叫んだ言葉は、静雄のど真ん中をぶち抜いていく、逆転のストレートだった。
「じゃあ、シズちゃんの言う責任ってなんだよ!!」
それが分かれば苦労はしない、という言葉を、静雄は寸でで飲み込んだ。
それを相手に委ねるなんて、何と卑怯なことか。
いいやそもそもこの男は、先ほどそれを提示してくれたではないか、露見すればお互いに不利益だから、お互いに黙っていましょう、――なかったことにしましょう、と。
それに否を返したのは静雄自身だ。ならば静雄が代わりを提示しなければならない、そして臨也にそれで赦しを得て、そしてそれから。
それから――。
形勢逆転、今度は静雄が黙り込む番だ。
なかったことにだけは絶対したくない。それならば逆に世間に大っぴらにされた方がマシだ。…けれど臨也はそれが嫌だと言う。それを無視することは出来ない、それでは単なる静雄の押し付けで、臨也に赦してもらえない。だけどだからといって臨也の言う、なかったこと、だけは嫌だ、絶対に嫌だ。
――どうして?
静雄には、臨也が必要だから。昨晩のことをなかったことになんてされてしまったら、またこの男は池袋から消えてしまう、何処かへ行ってしまう、そうして残るのはあの不自然で気持ち悪い日々だ、そんなのは嫌だ、そんなのはもうごめんだ。
なかったことにはさせない、そしてもう何処にも逃がさない、そのために、静雄が取るべき責任とは。
必死に考える静雄の顔に、ふっと溜め息が吹きかけられた。ハッとして視線を下ろす。
臨也がまた、呆れたように笑っていた。
「…言ってよ、シズちゃん」
「……」
「今考えてること、ちゃんと俺に言ってよ。どうせシズちゃんなんだから、一人で考えてたって答え出ないでしょ」
普段なら、その言葉に青筋の一本や二本は余裕で立てていた。
けれど今はそうしない。そうはならなかった。
何故なら臨也が、やっぱり今まで静雄が一度も見たこともないような顔で、柔らかい顔で、笑っていたから。
ぽつり、静雄の口から言葉が溢れた。ぽつり、ぽつり、ぽつぽつ、ぽつぽつぽつ、ぽつぽつぽつぽつ。
それはきっと脈絡もなく筋もなく、何とも理解し難い本流であっただろう、静雄の心中がずっとそうであったように。
それでも目の前の男は、臨也は、うんうんと頷きながら聞いてくれた。
ずうっと静雄の手に触れて、優しく撫で続けてくれながら。
***
窓の外が白み始めている。
昨晩といい今夜といい、何とも長い夜だった、と、臨也は動かせない身体をそれでも少し捩って伸びの真似事をした。
疲れたなあ、しぱしぱする目を何度も瞬かせながら、疲れたなあと大きく息をつく。…折れている肋骨が痛い。
夜を迎える少し前に新羅が飲ませてくれた痛み止めは、どうやら効き目が切れ始めているようだった。ベッド脇のサイドボードの引き出しにそれは入っているけれど、そちら側の手が今は塞がっているので手を伸ばせない。いや、例え手が空いていたとしたって、割とあらゆるところを骨折してたり骨にヒビを入れてたり酷い打撲を抱えている身体では引き出しから薬を出すのはそもそも難しく、そのために置いておいたはずの奈倉はさっさと追い返してしまった。
であるならば、選択肢は二つ。
このまま待って、また今日新羅が来てくれるまで痛みを耐え忍ぶか。
今、サイドボード側の手を握ったまま眠りに落ちている男を叩き起こして使役するか。
どちらも勘弁、困ったなあと臨也は再度大きな溜め息をついて、そして刺した痛みにそれでも穏やかに微笑ってみせた。
だって今朝は、折原臨也の、人間としての夜明けなのだから。
つい先ほどまで滔々と語り続けていた男は、今は名の通り静かに眠っている。そしてその手の中に臨也の手が握られている。
いつ力が入って手が粉々に砕け散るかと不安が全くない訳ではないが、本人曰く、あの怪力は怒りによって湧き出るもので、普段の生活に影響はないのだという。
それでも無意識状態は観測出来ないだろうとは思った、思ったがしかし、だったら今自分が実験台になればいいし、思えば臨也が新宿に拠点を置いて池袋を飛び回っていた頃、そしてそれより更に前、恐ろしいことにこの男と机を並べて勉学などに勤しんでいた頃、何でもない朝に目覚ましを叩き壊したという話は終ぞ臨也の耳には入って来なかった。
そう思えば、まだ学生服を着ていたあの頃に、この男が臨也の出したちょっかい以外でシャープペンシルをへし折ったことはなかったし、バスケットボールを破裂させたこともなかったと思い出す。購買の自販機でイチゴ牛乳を女子に混じって恥ずかしそうに買っては、普通にちゅーちゅーと飲んでいた、紙箱を握り潰すこともなく。
そしてそれは今ではシェイクに変わったけれど、臨也さえ目の前に姿を現さなければ、相変わらずきゅいきゅいと、脆い紙コップを潰すことなく平らげて。
見ているようで、見えていなかった。いや、『見ようともしていなかった』。
では今後、それを見ていくのかと言えば。観察して、“愛”していくのかと言えば。
(冗談じゃない)
これでもかと長い間、怪我人相手に一晩中語り続けた男の言葉を根気強く聞き続けても、やっぱり臨也にはさっぱり理解出来なかった。結局折原臨也にとって、平和島静雄とは“怪物”である、という認識は改まらなかった。
それでもその怪物は、人間から仲間という信頼を得て、本能を抑える理性を覚え、人間社会と共存を始めた。
それはもう人間の敵ではない。けれど臨也の敵でない訳ではない。
これからまた改めて臨也は“怪物退治”に勤しんでいくだろう、――――“怪物”の隣で。
何故って、その点だけはこの眠る男と考えが一致したのだ。
この男は、自分の愛すべき日常のために、臨也が必要なのだと言う。
臨也は、己が己たるために、静雄が必要なのだ。
(…………)
痛み止めが切れ始めると同時に、どうやら熱が上がって来たらしい。
ぼんやりとしてきた視界に逆らわず、臨也はぱたんと瞼を落とす。熱を持って来た身体に握られて更に熱を孕んでいる手はとても不快だけれど、けれど赦した。
どうせ臨也の意識はじき途切れる。男が目を覚ましたその時に、熱を持ち過ぎている自らの握っていた手を感じて、まさか自分のせいではないかと目でも白黒させて右往左往してくれればそれでチャラだ。
そのザマを見られないことだけが、残念だけれど。
そうしてやっぱりすぐに、臨也の意識は閉じた。
臨也が眠りについてから数時間後。
何か寒いし身体が痛い、と、ようやっと静雄は目を覚ました。
開いた視界の先には真白いシーツ。けれど自分は胡坐をかいて床に座り込んでいる。一瞬状況把握に時間を取られ、そしてあっと叫んで勢いよく身体を起こした。
目の前に横たわる折原臨也。その向こうの窓から差す恐らくもう大分高いだろう日差し。
慌てて空いている手でズボンのポケットを探り、携帯を取り出……そうとして、もう携帯は壊れて手元にないことを思い出す。
盛大な舌打ちをかましかけた瞬間、臨也の枕元でピリリと一度だけスマホのコールが鳴る。何の気なしに見やって、その画面に映っていた文章に静雄は目を見開いた。
『職場には連絡済。引き出しの薬飲ませて』
…分かっていた。折原臨也とは、こういう男だった。
いつ、どうやって静雄の出勤日を確認し、職場に連絡を入れたのか知らない(確かに静雄は今日は出勤日だった)。何故こうもタイミング良く静雄の目覚める時間に合わせてアラームを鳴らせたのかも知らない(もしくは毎時間ずっと鳴らしていた?)。
どちらにしろ、折原臨也がやることにいちいち驚いてやれるほど静雄はもう初心者じゃなかった(だから寝ている間中ずっと握っていたらしい手がやけに熱を帯びていたとしても、静雄はそんなこと気にしない)。
それでも何となくモヤッと、言い換えるならイラっと、そんな気分で静雄はサイドボードの引き出しを開ける。この辺りは新羅の仕事だろう、ちゃんと一回分ずつ小分けにされていて、静雄が迷うことはなかった。
ちょうどサイドボードの上にあった水のボトルと合わせて手に持ち臨也の方へ向き直る。
(…こんな時、)
例えば、幽が出ているようなドラマや映画だったなら。口移しで水を飲ませたりするのだろうか。…そんなことが頭を過ぎって静雄は緩く首を振る。
完全に寝ている人間というのは、以外と重たい。相手が寝ているままその身を起こすのは一苦労だし、かと言って完全に横になっているまま水を流し込んでも飲み込んでくれない可能性がある。そんな現実とフィクションという夢が、『口移しで飲ませる』なんてシチュエーションを生んだのだろうけれど、残念ながら静雄にはそれは通用しない。
よっと掛け声一つで細い臨也の身体は難なく起き上がり、その背を静雄の胸にもたれさせる。顎を掴んで上向かせ、顎を掴んでいる指で口を開かせる。舌を少し引いてなるべく奥の方に薬を置いて、そっとボトルの水を流し込む。
一瞬苦し気な顔をした臨也が喉をごくりと上下させたのを見届けて、静雄はまた静かに臨也を横たわらせた。
触れた身体が熱でじっとりと汗ばんでいたのは分かったが、だからと言って静雄が臨也の身体を拭いたり着替えさせたりするのは躊躇われた。どうせその内新羅が来るだろう、そこらは新羅に任せた方がいい。
そう結論付けた静雄だが、さすがに何となく、これくらいなら、と水で絞ったタオルだけは用意してやった。額に乗せてやると、心なしか臨也の表情が少し和らいだ気もするから不思議だ。
そうしてただ、目覚めた時と同じ体制で、ベッド下の床に胡坐をかいて座り込んで、寝ている間は握っていた手を今度はゆっくり撫ぜながら、臨也がそうしてくれたように撫ぜながら、ただ静雄は、折原臨也を見る。
そんな風にゆっくり、喧嘩も追い回しも殺し合いもしないで臨也を眺めることなど、静雄にとっては初めてのことだった。
『分かったよ』
夜を徹して自分でも訳が分からないようなことを吐き切った静雄に、最後に臨也はそう言った。
『正確には良く分かってないけどね。やっぱり俺にはシズちゃんの言ってることは分かんない。けどね、』
『俺も分かったんだ。俺にはね、』
――シズちゃんが、必要なんだ。
やっぱり静雄にも、臨也が言ったことは良く分からなかった。
昨夜は静雄ばかりが話してしまって、臨也の言葉など聞き流していた喚きと最初の言い合いと最後のこの言葉しかない。臨也は静雄に考えていることを言えと言ったけれど、そういえば静雄は臨也が考えていることをちゃんと聞けていない。
だから分からないのだろうか、臨也のことが。
(…いいや)
そうではないと思うのは、静雄の本能だ。最初の出会いのあの時に臨也を“敵”だと判断した本能。結果正しかったその判断。
その本能が静雄に言う。平和島静雄と折原臨也というものは、恐らく違うものなのだ、と。
静雄が嬉しいと思うことが、多分臨也は嬉しくない。静雄が嫌いだと思うものが、恐らく臨也は嫌いじゃない。そういう違いだ。
……けれど、それが何だと言うのだろう。
それでも臨也は静雄の愛する日常に根を張ってしまい、もう静雄は臨也の居ない毎日など考えられない。臨也は静雄に必要だ。だからもう何処にも逃がさない。
その“欲望”の名前を静雄は知っている。もしかしたら昨夜それを本人に零してしまったかもしれない、そうでないかもしれない、もう、覚えていない。
そう、それはもうどうだっていいことなのだ。静雄は臨也が必要で、臨也も静雄が必要だと言う。ならもうそれでいいじゃねえか。
体力バカの静雄もさすがに本気で疲れていた。この二日間は、あの日のあの闘いからこれまでの時間全てひっくるめても足りないほど濃かった。
もう一度静雄は目を閉じる。部屋中に漂うノミ蟲臭が鼻に付く。目覚めたらこの臭いがまた静雄を刺して来る苛立ちを想像しながら、そのまま静雄は眠りに落ちた。
***
シズちゃん、と空から声が降るのと、金髪バーテン姿の男がその声の元を見据えたのは、どちらが先だっただろうか。
どちらにしても一瞬の後、池袋中に怒号が響き渡り、二つの人影がビルの隙間をぴょんぴょんと飛び跳ねていくのだから、どちらが先でも結果は変わらないだが。
黒いファーコートを身に纏った細身で黒髪の男がきゃらきゃらと笑いながら空を駆け、金髪バーテン男が唸りながらその後を追う。
どちらの男もほんの少し前までは、池袋では伝説と化した男たちだった。しかも黒髪の方は何年もの間池袋から姿を消していて、生死不明ですらあったという。
今、二人の追いかけっこを遠巻きに見守る人たちは、そんな事情もすっかり忘れ、ただただ巻き込まれないように距離を置きながら、けれど変わらぬ日常としてそれを横目に自分たちの毎日を片付けていく。
そんな中僅かに、懐かしそうに目を細める人も居たり居なかったり。けれどそんな人たちは、彼らが交わす会話を聞いて必ず顎が外れるという。
「てっめぇクソノミ蟲クソ臨也! 何度も何度も、あぁもう何度も何度も何度も何度も言ったよなぁ? 俺は確かに言ったよなぁ?! 手前一人で外歩き回るんじゃねえって!」
「やめてよシズちゃん、俺にだって仕事や都合があるんだから。束縛反対! そんなんじゃモテないよ~」
「だっからンな胡散臭い仕事さっさと辞めろって言ってんだろうが! 手前さえその辺うろちょろしなけりゃ、俺だって給与天引き減るんだよ! そしたら二人分くらい、」
「冗談! シズちゃんの安月給で俺を養おうなんて百万年早い!」
顎が外れる人たちの横で、日常として受け流していく人たちとも、とはいえ懐かしさとも違う視線で彼らを見守っている人たちが居る。
その人たちは時に、金髪バーテン男が最後まで公共物を壊さずに我慢がきくかどうか賭けをしていたり、今日の黒髪の用件は昼の弁当を届けに来たのか晩飯のメニューを相談しに来たのかと想像しては微笑っていたり。相変わらず、少しだけ心配そうにオロオロとしてしまうライダーが居たり。
「シズちゃん、早く死んで!」
「ブチ殺すクソノミ蟲!」
……その気持ちを何と呼ぶのか、二人の友人でありたった一人に全てを捧げている男ならばきっと簡単に応えられたのだろうけれど。
けれどその男は、愛する彼女がこの結末に半分呆れて半分喜んでいたので、どうやらそれで良しとしてしまったらしかった。
何はともあれ、めでたし、めでたし。
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シズちゃんのいうノミ蟲臭とは、わたしの中の解釈では、臨也さんのシズちゃんに対する視線、興味、意識のつもりです。
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